紀の国情報館およびファミリー版

テラナカ美術館所蔵 『太平記(目録・剱巻)』

笠置の囚人死罪流刑の事附藤房卿の事
 笠置の城が攻め落された時召捕られた人々の処分は、元弘二年正月六波羅で定められた。比叡山、奈良の諸門跡(一)、月卿(二)、雲客、諸衛の司(三)等に至るまで、罪の軽量によつて或は禁獄(四)或は流罪に処せられた。足助次郎重範は六條河原で首を斬られることに定まり、万里小路大納言宣房卿は子の藤房季房二人に座して捕へられ、七十歳の老体を囚人の如くに取扱はれた。
 罪のあるなしにかゝはらず、後醍醐天皇に御仕へ申した公卿殿上人達は、或は出勤をさしとめられて隠遁し、或は官職をやめられて飢渇の憂をいだく等、運不運、塞不塞のうつりかはりは、抑々夢といはうか幻と云はうか。
 源中納言具行卿は、佐々木佐渡判官入道道誉が道中の警固をして鎌倉へ下し奉つたが、途中近江の柏原で斬られてしまはれた。
 又同月二十一日に法印良忠を大炊御門油小路の警備兵である小串五郎兵衛尉秀信が召捕つて六波羅へさし出したので、六波羅では色々取調べたが、其処分については意見がまち/\となつた為め、此法印を五條京極の警備兵である加賀前司に預け、取調べの結果を鎌倉へ再び報告する事とした。
 中宰相成輔は河越三河入道円重(ゑんぢう)がお連れ申して、鎌倉へ下し奉るといふ事であつたが、鎌倉ヘまでは下し奉らず、相模の早河尻で斬られてしまはれた。
 侍従中納言公明、別当実世卿のお二人は、赦免になられるといふ事であつたが、安心が出来なかつたものか、波多野上野介宣通、佐々木三郎左衛門尉の二人に頂けて、邸へはお帰し申さなかつた。
 尹大納言師賢卿を下総の国へ流し、千葉介に預けられた。此方は後に僧となつて仏門に帰依されたが、まもなく急病でお亡くなりになつたといふ事である。
 東宮大進(とうぐうだいしん)李房(すえふさ)を常陸の国へ流して長沼駿河守に預けられ、中納言藤房も同じく常陸の国へ流して小田民部大輔に預けられた。
 藤房卿は、中宮にいられた左衛門佐局といふ勝れて美しい女房に、ひそかに思ひを寄せてゐられたが、それと云ひ伝へる方法もなく、心に秘めては嘆き明し思ひ暮して、三年間も過された。所がどうした人目の紛れであつたか浅い契りを結ばれ、一夜の夢とも幻ともつかぬ枕をおかはしになられた。其次の夜、天皇が俄に笠置へ落ちさせられた為め、藤房卿も御供仕らうとしたが、今一度其女房に会ひたいものと、西の対へ行かれた所、折柄北山殿へ参られたといふ事であつた故、鬢の髪を少しばかり切りそれに歌を書きそへて置いて来られた。女房は後で其形見の髪と歌とを見て泣き悲しみ、余りの思ひに堪へかねて、哀れにも大井河へ身を投げてしまつた。
 按察大納言公敏卿は上総の国へ、東南院僧正聖尋は下総の国へ、峯僧正俊雅は長門の国へ、それぞれ流された外、第四の宮は但馬の国へお流し申して、其国の守護である太田判官に預けさせられた。
起 正慶元年正月〜同年6月










八歳の宮御歌の事
 第九の宮は今年八歳であられたから、中御門中納言宣明卿に預けられて京都にいらせられた。所が常に父君であられる後醍醐天皇を恋ひ慕はれ、万事につけ悲しいい御様子であられた。或日中門(五)にお立ちになつてゐられる時、遠寺の鐘がかすかに聞えてきたので、
  つくづくと思ひ暮していりあひの
    鐘をきくにも君ぞこひしき
 (歌意──君の御事を一日中しみじみと思ひ暮したが、夕方になつて入相の鐘をきくと、尚一層恋しく思はれる。)
と詠まれた。
 其頃京中の僧侶といはず、俗人といはず、男といはず、女と云はず、この歌を畳紙や扇に書きつけて、「八歳の宮の御歌だ」と賞翫せぬ者はなかつた。






一宮並妙法院二品親王の御事

 三月一日に一の宮の中務卿親王を佐々木判官時信が御警固申して、土佐の国の畑へお流し申した。又同じ日に妙法院二品親王をも長井左近大夫将監高広が御警固を承つて讃岐の国へ流し奉つた。
 配流の地も共に四国であるといふ事であつたから、せめて同じ国であつてくれ、風の便りにでも御物語をして、悲しみを慰める助けにもしようと思ひ願はれたが、其甲斐もなく、一の宮は漂ふ波に漕がれ行く浮船に身を任せて、土佐の国の畑へお着きになり、有井三郎左衛門尉の屋敷の側に設けられた一室にお入りになつた。妙法院は備前の国まで陸路を来られ、児島の吹上から乗船せられて讃岐の詫間にお着きになられた。
 承久の乱の例に習つて後醍醐天皇を隠岐の国へお遷し申す事は定まつたが、臣下の分際で天皇をないがしろにし奉る事を、北條氏もさすがに畏れ多いと思つたのか、後伏見院の第一の御子(六)を御位にお即け申して、後醍醐天皇御遷幸の宣旨を下されるやうに取り計らつた。






俊明極(しゆんみんき)参内(さんだい)の事

 元享元年の頃、元の国から俊明極と云ふ禅師が来朝した。天皇が直接外国の僧に人相を見させられるといふ故事はなかつたが、後醍醐天皇は御法談の為め此禅師を宮中へお召しになり、御法談が終ると禅師は会釈をして退出した。其翌日別当実世卿を勅使として禅師号を下された時、禅師は勅使に向つて、
「此天皇は高貴の極、敗亡の悔に遭はれるが、二度帝位におつき遊ばされる御相がある。」と申上げた。それ故囚はれの御身となられた今も、二度帝位に陞られる事を確信され、当分の間法師姿にはなられないと仰せ出された。





中宮御歎きの事

 三月七日に後醍醐天皇はいよ/\隠岐の国へお遷りになられるといふ事であつたから、中宮(七)は夜に紛れて六波羅の御所へ行啓遊ばされ、中門へ御車を寄せられると、天皇が御出ましになり、御車の簾をかゝげて御対面遊ばされた。天皇は中宮を都へ残して旅に出られた後の事を思ひ続けられ、中宮は又遠い所へ行かれる天皇の御事を想像して歎き悲しまれた。夜明け近くなつて中宮は還御になられたが、再びめぐり逢はれる事のおぼつかなさに、伏し沈まれた御心中は推しはかるだに誠に悲しいものであつた。
 



先帝遷幸の事

 三月七日に、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道道誉らが、五百余騎で道中の御警固を承つて、後醍醐天皇を隠岐の国へ遷しまいらせた。お供と云つては、一條頭大夫行房、六條少将忠顕、それに御世話役の三位殿御局の三人だけであつた。其外は甲冑を着け、弓矢を持つた武士達が、前後左右をお囲み申してゐるばかりで、七條を西へ、東洞院を下へ、御車をきしらせ行かれたから、貴賤男女を問はず、多くの人々が立ち並んで、丁度赤子が母を慕ふやうに泣き悲しんだ。
 かくて日を重ねられ、都をお出ましになつてから十三日目に、出雲の見尾の湊にお着きになり、こゝで御船を用意し、渡海のため順風の時をお待ちになられた。
 






備後三郎高徳が事
  
 其頃備前国に児島備後三郎高徳といふ者があつた。天皇が笠置にお在(ま)しの時、御身方となつて義兵を挙げたが、まだ成功しない前に笠置も落され、楠正成も自害したといふ噂が立つたので、がつかりしてひかへてゐたが、天皇が隠岐国へ遷幸遊ばされると聞いて、二心のない一族の者を集めて相談するには、
「志士とか仁人とか云はれる者が、命を惜がつて人道をつくさぬといふ事はない。命を投げ出して当然つくすべき事を眼前にみながら、それを実行しないのは勇気のない為めだ。吾々は臨幸の御途筋へ出て、天皇をお奪ひ申して大軍を起し、縦へ死骸は戦場へさらしても名誉を子孫に伝へようではないか。」
と云つた所、心ある一族共は皆其意見に賛成した。「それでは御途筋の難所に待ち受けて、隙を覘ふことにしよう」と、備前と播磨の国境である船坂山の頂上に隠れて、今か/\と御通過を待つてゐた。臨幸が余りに遅かつたので、使を走らして様子をさぐらすと、警固の武士達は山陽道を通らず、播磨の今宿から山陰道に入つたいふ事であつた。高徳の第一の計画は全くはづれたが、次ぎは美作の杉坂こそ最も適当な深山である、そこでお待ち申さうと、三石の山から斜に道もない山の雲を凌いで杉坂へ来てみると、天皇は早や院荘(ゐんのしやう)へお入りになつたといふ事であつたから、仕方なく一族の者は此処で散り散りになつた。高徳はせめて此覚悟だけでも天皇の御耳に入れたいものと、賤しい服装に身をやつし、忍んで御跡を追ひつゝ適当な時機を覘つてゐたが、なか/\さうした隙がありさうにもなかつたので、お泊りになつてゐられろ宿の庭に大きな櫻の木のあつたのを削つて、大きな文字で
  天莫空勾践(てんこうせんをむなしうするなし)。 時非無范蠡(とき はんれいなきにあらず)。(八)
といふ一句の詩を書きつけた。
 御警固の武士共は、翌朝これを見つけたが、読みかねて、「何事を誰れが書いたのだらう。」と、事の次第を天皇に申し上げた。天皇はすぐさま詩の意味をおさとりになつて、晴れやかな御顔にほほ笑みを含まれたが、武士共は一向そのいはれを知らず、別に咎め立てもしなかつた。


























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