紀の国情報館およびファミリー版

テラナカ美術館所蔵 『太平記(目録・剱巻)』

南都北嶺行幸の事
元徳二年三月八日に天皇は東大寺、興福寺に行幸あらせられ、又同月二十七日には比叡山へ行幸遊ばされた。
 元亨以後、武家の勢力強く、廷臣は辱められ、天皇は御憂鬱の生活を続けさせられ、天下には不安の空気が漂つてゐた。さうした時にこそ行幸の御機会は多かつたらうに、今日の場合、奈良や比叡山への行幸は、一体どのやうな御願(ごぐわん)があつてかと、探つて見ると、近頃北條高時の行ひが常規を逸して、不義、無道に陥つたのみならず、武臣は鎌倉の命令にこそ従へ、天皇からお召しを蒙つても応じようとしない。そこで比叡山と奈良の僧侶達を味方につけて、鎌倉方を征伐されようとする御謀叛だと申す事であつた。大塔宮二品親王は当時の貫主(一)であられたが、其為めに修行や学問は打ち捨てゝ、朝夕武芸の御錬磨に余念がなかつた。元来武術がお好きであつた故(せゐ)もあらうが、早業、打物の秘術奥義をきはめられた。最初の天台座主(二)義真和尚以来百代余りの間、こんな不思議な門主(三)は一人もゐられなかつたが、これも鎌倉方を征伐する為めの御修練であつたと、後では思ひ合はされた。
 
起 元徳1年1月〜元弘元年8月




僧徒六波羅へ召捕の事附為明詠歌の事
 大塔宮の御行動や、宮中での北条氏の呪詛やが、すべて鎌倉方へ知れわたつた為め、北条高時は大に怒り、
「この天皇が御位にゐらせられる間は、天下は静まるまい。承久の乱の例に習つて天皇を遠国へお遷し申し、大塔宮を死罪に処し奉らねばならぬ。それには先づ、天皇の側近に奉仕して北條家を呪ふ祈りをしてゐる法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、南都の知教、教円、浄土寺の忠円僧正を召捕つて、精しく聞き糺すがよい。」
と考へ、二階堂下野判官と長井遠江守との二人を鎌倉から京都へ上らせ、五月十一日の明方に法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、浄土寺の忠円僧正の三人を六波羅へ召捕つた。それのみでなく奈良の知教、教円の二人も、呼び出されて六波羅へ出頭した。
 又二條の中将為明卿は歌道の達人で、月の夜雪の朝に行はれる褒貶(四)の歌合の御會に常に召されてゐたので、別に疑はしい人物ではないが、天皇の御心をさぐらうとする目的で召捕り、残虐きはまる火炙りの拷問にかけようとした。為明卿はそれを見て、「硯はないか。」と問はれたので、白状する為めかと思つて、硯に紙を添へてさし出したら、白状ではなくて、すら/\と一首の歌を書きつけた。
  思ひきやわが敷島の道ならで
    うき世のことを問はるべしとは
(歌意──思ひがけないことだ、自分の知つてゐる歌道の事ではなく、何も知らないうき世の事を聞かれようとは。)
 常葉駿河守は此歌を見て感じ入り、涙を流して其尤もな道理に服した。鎌倉の二人の使者も之を読んで、共に涙で袖をぬらした。これが為め為明卿は拷問の責苦を免れて、青天白日の身となつた。









三人の僧徒関東下向の事

 六月八日に鎌倉の使者は忠円僧正、文観僧正、円観上人の三人を護つて鎌倉へ下つた。
 円観上人には、宗印、円照、道勝といつて、何時も影のやうにお側についてゐた三人の弟子がつき随ひ、輿の前後についてゐた。文観僧正と忠円僧正とには従者が一人もなく、伝馬(五)に乗せられ、見慣れない武士に取り囲まれて、夜の中に関東への旅に出られた、其心中は誠に哀れだ。鎌倉へ着く前、途中で殺されるだらうといふ噂があつたから、行きつく宿毎に今を限りの身と思ひ、休らふ山の峠毎に之が最後かとなげき、はかない命のまだある間から心は既に消え入つてゐた。昨日も過ぎ、今日も暮れて、急ぐ旅ではなかつたが、行き行く中に日数が積つて、六月二十四日に鎌倉へ着いた。
 三人はそれぞれ拷問にかけられた。文観僧正は却々白状されなかつたが、度重なる水責めに身も疲れ心も弱つてか、勅命で北條氏を呪ふ祈りをした事を白状せられた。其次に、忠円僧正を拷問しようとした所、此人は生れつき臆病で、まだ責めない先に、天皇が比叡山の僧侶を誘つて味方とせられた事、大塔官の御行動、俊基の陰謀、等々、ありもしない事までも一切白状してしまつた。又円観上人をも拷問しようとしたが、色々不思議な現れがあつた為め、これは普通(ただ)の人ではないと、それを取り止める事にした。
 七月十三日には三人の僧達の遠流(六)の場所が定まり、文観僧正は硫黄が島へ、忠円僧正は越後の国へ流された。円観上人だけは遠流一等を滅ぜられて、結城上野入道に預けられる事になり、結城の居国である奥州に向つて、長い旅路をさすらひ行かれた。








俊基朝臣再び関東下向の事

 俊基朝臣は先年召捕られた時には、色々と申し開きして赦されたが、今度再び僧達の白状によつて召捕られ、鎌倉へ送られる事になつた。自分では途中で殺されるか、鎌倉で斬られるか、二つの中の一つと決心して出かけられた。
 雪かと見紛ふ落花に路を踏み迷ふ春の交野の桜狩や、紅葉の錦を身につけて帰り行く嵐山の秋の暮に、たゞ一夜を明すのさへ、旅寝といへば物憂いものであるのに、恩愛の契り浅からぬ妻や子供を、どう成り行くか末の事は分らぬままに故郷に残し置き、長年住み馴れた都も今日が見をさめと、振返り/\思ひがけない旅に出られる心の中は哀れの限りである。
 逢坂の関へかかつたが、関といふのは名ばかりで、わが心にわだかまる此憂さをとどめてはくれぬばかりか、滴る清水に袖がぬれて、涙ながらに山路を過ぐれば打出の浜、浜に出て琵琶湖の沖を遙かに見渡すと、水上に浮き沈みする浮舟の如き我身の今の有様が思ひ合される。馬もとどろに踏みならす勢多の長橋を渡り、行き交ふ人に近江路を過ぎて、世をうねの野(七)に鳴く鶴の声を聞くと、子を思ふ親心に身がつまされて哀れである。時雨の森山(八)の木の下露に袖をぬらし、風に露散る篠原(九)の篠かき分けて道を行くと、行く手に鏡(一〇)の山は聳えてゐるが、涙で曇つてそれと見分けられない。物を思ふと一夜の中にも老蘇(一一)の森の下草に馬をとどめて、振返り見る故郷は雲に隔てられてゐる。番場、醒井、柏原を過ぎて、不破の関所へ来たが、荒れはてた関所を守(も)るのは秋の雨のみである。やがては我身の尾張の国へ入り、熱田神宮を伏し拝んで、折からの潮干に鳴海潟にかかると、西に傾く月明りに道がほのかに照し出されてゐる。日を重ねて行く道の、末は何処かと遠江(とほつあふみ)の国の、浜名の橋から見渡す夕べの海に、引く人もない捨小舟の如く、沈みはてた今の我身を、誰れが同情して哀れだなどと夕暮の鐘が鳴ると、今日は此処までと池田の宿に留まられた。元暦元年頃の事、重衡中将が囚へられて此宿へ着いた時、「東路の埴土生の小屋のいぶせきに故郷いかに恋しかるらむ」と長者の娘が詠んだといふ故事までも思出されて、俊基朝臣は涙をしぼられた。
 旅館の燈の光がうすれ、鶏の声が暁を告げるとやがて出発。吹く風に勇む馬は噺きつつ天龍河を渡り、小夜の中山(一二)を越えて行くと、白雲が幾重にも立つて、何処が道ともわからぬ夕碁に、故郷の空を望み見るにつけ、昔西行法師が「命なりけり(一三)」と歌つて、二度も此山を越えた事を羨しく思はざるを得なかつた。
 時間の経つのは早いもので、日は早や正午になつたから、食事をさし上げようとて輿を止めた。俊基卿は輿の長柄を叩いて警固の武士を呼び、宿の名を問はれたら、「菊川と申します」と答へた。菊川は承久の合戦に、院宜を書いた咎で関東へ召し下された光親卿が殺された処であるが、其時、
  昔南陽県菊水(むかしなんやうけんのきくすゐ)。 汲下流而延齢(かりうをくんでよはひをのべ)。
  今東海道菊河(いまとうかいだうのきくがは)。  宿西岸而終命(せいがんにやどつていのちををふ)。
と書かれた光親卿の故事を、今我身が繰返してゐることを悲しく思つて、俊基朝臣は一首の歌を宿の柱に書きつけられた。
  いにしへもかかるためしをきく川の
     おなじ流れに身をやしづめむ
(歌意──昔もあつたと聞いてゐる例の通り、此菊川に同じ運命の身を沈めるのか。)
 大井河を過ぎる時、都にもある同名の川を思ひ出し、亀山殿(一四)の行幸や嵐山の花盛りなどに、龍頭鷁首の舟(一五)を泛べて、詩歌管絃の宴に侍つた事が、今はもう二度と見られぬ夢のやうに考へられた。島田、藤枝にかかつて、岡部(一六)の真葛のうら枯れた物悲しい夕暮に宇都の山を越えると、蔦や楓が茂り合つて道もないほどだ。昔、業平の中将が住家を求めて関東に下られ、「夢にも人に逢はぬなりけり(一七)」と此処で詠まれた心持もこんなであつたらうと思ひ合される。清見潟を通ると、せめて夢にでも都へ帰りたいと思つてゐるのに、其夢をさへ此処の波音は高くて結ばしてくれぬ。彼方に見えるのは三穂が崎、奥津、神原を過ぎて、富士の高嶺が眼に入ると、雪の中から立ち昇つてゐる煙が今の我身のはてしない物思ひと較べられ、晴れゆく霞に松の見える浮島が原を過ぎ行くと、潮干の浅瀬に船が浮いてゐる。甲斐々々しく立ち働いてゐる田子の浦を過ぎて、浮世はめぐる車返し(一八)を行き、竹の下(一九)を歩みなやみつつ足柄山にかかり、其頂から大磯小磯を見下して、袖にも波は小余綾(こゆるぎ)(二〇)の磯を過ぎ、別に急ぐ旅でもないが、日数重なつて七月二十六日の夕方に
鎌倉へ着かれた。











長崎新左衛門尉意見の事附阿新殿の事

 後醍醐天皇の御謀叛が露顕した後、御位は持明院殿の方へ来るであらうと、其侍臣達や年若い女房達までも悦び合つたが、そんな様子は更に見えなかつた。そこで色々申し進める者があつたからでもあらう、持明院殿から内々鎌倉へ御使を立てられ、
「後醍醐天皇の御謀叛の企ては、近頃一日を争ふ場合となつてゐる。武家の方で急ぎ方策を講じないと、天下はまもなく乱れるであらう。」
と仰せられたので、北條高時は一族の者及び評定衆を集めて、それについての各自の考へを述べさせた。一同が返事を躊躇してゐる間に、執事長崎入道の子、新左衛門尉高資が、「速かに後醍醐天皇を遠国へ御遷し申し、大塔官はお帰りになれぬやうな場所へお流し申し、俊基、資朝らの乱臣は殺してしまふより外に道がないと思ひます。」
と無遠慮に云つたのを、二階堂出羽入道道蘊(だううん)は暫く考へた後、
「武家が政をとつてから百六十年、代々富み栄えて、其威光が天下に行き渡つてゐるのは、偏へに上、天皇を仰ぎ奉つて忠義をつくし、下、百姓を労る仁政を行つて、心にすこしの私がなかつたからである。然るに天皇を遠国へ遷し奉り、大塔宮を流罪に行はれようとする。さやうの事は神の怒りを買ふのみならず、比叡山の僧侶達を憤らするに相違ない。神怒り人背かば、武家の運命はそこに尽きるであらう。君々たらずとも臣々たらざるべからずといふ事がある。たとへ天皇が御謀叛を思ひ立たれても、武家の威光が盛んであれば御身方申す者はあるまい。若し武家が益々慎んで勅命に従つたならば、天皇も御心を飜されぬ事はあるまい。かうして始めて国家は泰平となり、武家も亦た永く繁栄すると思ふ。」と云つた。之をきいて長崎新左衛門尉は大に怒り、
「文武の道は一つであるといつても、其取捨選択は時によつて異つてゐる。ぐづ/\してゐて武家追罰の宣旨(二一)を下されたなら後悔しても追ひつかぬ。今は一時も早く天皇を遠国へお遷し申し、大塔宮を硫黄が島へお流しして、資朝俊基を殺されるより外に方法はない。さうしてこそ始めて武家の安泰が後世までも続くと考へられまする。」
と伸び上つて云ひ立てたので、其場の者も皆之に賛意を表した。道蘊は押切つて再度の忠告をする勇気もなく、顔をしかめて出て行つた。
 さて「天皇の御謀叛をおすすめ申したのは、源中納言具行、右少弁俊基、日野中納言資朝である。これらの人々は殺すべきである。」と相談が定まり、「先づ去年から佐渡国へ流されてゐる資朝卿を斬らう」と、佐渡国の守護本間山城入道に其命を下した。
 此事が京都へ知れたから、資朝の子で、其頃は阿新殿(くまわかどの)といつて、歳が十三であつた国光の中納言は、「かうなつては何で命が惜からう、父と一所に斬られて冥途の旅のお供もし、又最後の御様子をも見とどけよう」と、心をきめて母に御暇を願つた。母も仕方なく、今まで唯だ一人附き添つてゐた召使を附けて、遥々佐渡国へ行かしめた。
 やがて佐渡へ着いたが、誰れと云つて頼る人もないので、みづから本間の屋敷へ行つた所、本間も哀れに思つて丁寧にもてなしたが、今日明日の中に斬られる人に会はせては、却つて死に行く人の心残りとならうし、又鎌倉へ聞えもよくあるまいと、四五町離れた処に置いて、父子の対面を許さなかつた。それと聞いて、父子は各々悲歎の中に日を送つたが、五月二十九日の夜、遙々たづねて来た我子を一目見る事も許されずに、資朝卿は斬られてしまつた。
 阿新は父の遺骨を一目見るなり、其場に倒れ伏し、
「生前に御対面が叶はず、今かうした白骨に御目にかかることは、誠に無念でございます」と声を立てて泣き悲んだ。
 阿新はまだ幼なかつたが、心のしつかりした子であつたから、父の遺骨を召使に持せて、自分より先に都へ帰し、自分は病気だと云ひ立てて本間の屋敷にとどまつてゐた。これは情なくもこの世で父に会はさなかつた本間に恨みを晴らさうと考へたからである。かうして阿新は四五日の間昼間は病気の風を装つて終日寝てをり、夜になるとこつそりとぬけ出して、本間の寝間等を詳しく調べ、隙があつたら入道父子の中どちらかの一人をさし殺して腹を切らうと決心して覘つてゐた。
 或夜雨風が烈しくて、宿直の家来達が皆遠侍(二二)で寝てゐるの見すまし、今夜こそは待つてゐたよい日であると、阿薪は本間の寝間をこつそり覗いて見た所、本間の運が強かつたのか、今夜は何時もと寝間を変へて、何処にゐるかわからなかつた。又二間(二三)の部屋に燈のついてゐるのが見えたので、もしや本間の子が寝てゐるのではなからうか、それでも討ち取つて恨みを晴さうと、忍び入つて見ると、其子も其処には居らず、父資朝を斬つた本間三郎といふ者が唯だ一人で寝てゐた。縦令小者でも親の敵だ、考へやうによつては山城入道と同じ事だと、走りかからうとしたが、自分は始めから太刀も刀も持つてはゐない、唯だ人の太刀を頼りとしてゐるのに、燈が赤々とついて居り、近寄れば驚いて起出すかも知れないから、容易くは近寄れない。どうしようかと考へあぐんで立つてゐたが、丁度夏の事で燈の彰を慕ふ蛾がたくさん障子にとまつてゐるのに気づき、さてさて善い機会だと、障子を少しあけたら、其蛾は続々中へ入り、間もなく燈を消してしまつた。かうなればもう大丈夫だと、阿新丸は喜んで、本間三郎の枕元に近寄つて探ると、太刀も刀も枕辺にあつて、本人はぐう/\寝入つてゐる。先づ刀を取つて腰にさし、太刀を抜いて胸元にさしつけ、寝てゐる者を殺すのは死人を殺すのも同じだから、驚かしてやらうと思ひ、足で枕をぱつと蹴とばした。蹴られて驚く処を最初の太刀で臍の上を畳まで透れとつきさし、返す太刀で喉笛を切り、落付いて後方の竹原の中へかくれた。本間三郎が最初の太刀で胸をつきさゝれた時、あつと云つた声に驚き騒いで、宿直の者が火を点して見ると、血のついた小さい足跡がついてゐた。「さては阿新殿のしわざ。堀の水は深いから、門より外へはまさかに出まい、さがし出して打ち殺せ」と云つて、手に手に松明をともし、木の下、草の蔭までも隈なく探した。阿新は竹原の中に隠れながら、今となつては何処へ逃げる事も出来ない。人に殺されるよりも自分で死なうと考へたが、既に憎いと思ふ親の敵を討ち終せたのだから、今は何とかして命を長らへ、天皇の御役にも立ち、又父の年来の志をも遂げさすのが忠臣孝子の道だ。若しかしたら助かるかも知れぬ、一応逃げのびて見ようと思ひ直して、堀を飛び越えようとしたが、口二丈、深さ一丈以上もある堀、とても越えられさうにもなかつた。ではこれを橋にして渡つてやらうと、堀の上に先の垂れてゐる呉竹へするすると登つたら、竹の梢が向岸へ垂れ下つて、楽々と堀が越えられた。
 まだ夜更けであるのを幸、湊へ行つて船に乗らうと、たど/\海岸の方へ行く中、夜は段々に明けてきた。こつそり行くべき道もないので、身を隠さうと麻や蓬の茂り合つた中に隠れてゐた所、追手と思はれる者達の百四五十騎が四方に走り廻つて、
「若しや十二三歳位の子供は通らなかつたか。」
と、道で出合ふ人毎に聞いてゐる声がした。阿新は其日は麻の中で過し、夜になると湊の方へ当(あて)もなく行く中、其孝心に感じて神仏が守護されたものか、年とつた一人の山伏に行き合つた。山伏は阿新の様子を見て可愛さうで堪らず、
「あなたは何処から何処へおいでになるのか。」
と問うた。阿新は事の次第をありのまゝに話した所、山伏は聞き終つて、若し此子を自分が助けなかつたなら、直ぐひどい目に逢ふに決つてゐると思つて、声を和らげ、
「御安心なさい、湊には商人船が沢山居るから、お乗せ申して越後、越中までお送り申します。」と云つて、足の疲れた阿新を、肩に乗せたり、背負つたりして、間もなく湊へついた。





















俊基誅せらるる事附助光が事

 俊基朝臣は特に謀叛の張本人であるから、近く鎌倉で斬られる事に定められた。此俊基が長年召使つてゐた青侍(二四)に後藤左衛門尉助光といふ者があつた。此助光が俊基の北の方の文を持つて、こつそりと鎌倉へ下り、何とかして俊基に会はうとしたが、それも出来ずに日を過す中、いよ/\斬られるといふ事を聞いたので、心を決して役人に願ひ出た所、許されて漸く対面することが出来たので、北の方の文を手渡した。俊基は泣く泣く鬢の髪を少し切り取り北の方の文に巻きそへ、一筆書いて助光に渡された。助光は俊基の御最後を見とどけてから、その遺骨を首にかけ、形見の御文を身につけて京都へ帰り、北の方に前後の有様を申上げた所、北の方は又となく歎き悲まれ、遂に尼になつて亡夫の菩提を弔はれた。助光も亦髪を切つて僧となり、永く高野山に閉ぢ籠つて亡き主君の後を弔つた。











天下怪異の事

 嘉暦二年の春頃から寺々に火災があり、又地震が頻々として処々に起つたから、人々は皆ただ事ではないと思つてゐた所、其年の八月二十二日に鎌倉の使者が三千余騎で上京した。まだ使者がついたばかりなのに、どこから聞いたものか、「今度の使者の上京は天皇を遠国へお遷し申し、大塔宮をお殺し申す為めだ」といふ知らせが比叡山へ届いたので、八月二十四日の夜、大塔宮はこつそりと天皇にお使を出されて、
「今度鎌倉から使者の上京した事情を内々聞きますと、天皇を遠国へお遷し申し、私を殺さうとする為めださうでございます。今夜急いで奈良の方へお忍び下さい、城がまへが十分出来ず、味方の軍勢もまだ集つて来ない前に、賊共が若し皇居に攻め寄せて来たら、身方が如何に防ぎ戦つても敗北は必定です。一つには京都に居る敵の追跡を遮り止める為め、二つには僧侶達の心をためしてみる為めに、近臣の一人を天子と呼んで比叡山へ上らせ、臨幸のやうに云ひ広めたならば、敵はきつと比叡山に向つて合戦いたしませう。さうなれば僧侶達は自分の山を思ふ故、身命を惜まず防戦いたします。賊共が力疲れ、合戦が五六日も続けば、伊賀、伊勢、大和、河内の官軍をひきゐて、反対に京都を攻め立てさせます。かうすれば賊共の全滅はまたたく間です。国家の安危は唯だ此一挙に在ると思はれます。」と申されたので、天皇は唯だあきれさせるばかりであられたが、尹大納言師賢、万里小路中納言藤房、其弟季房ら、三四人の宮中に宿直してゐた者を御前へ召し出され、御相談の結果、御親らは三種の神器を捧持して御車に乗られ、下簾(二五)から出絹(だしぎぬ)(二六)を出して女房車のやうに見せかけ、陽明門から出御遊ばされた。
 かうして天皇は奈良の東南院へ入らせられた。其処の僧正は忠義の志が厚かつたから、臨幸を秘して僧侶達の心をさぐつて見た所、西室の顕実僧正は鎌倉の一族である上に、権勢のある門主であつたから、其威光に恐れたものか、御身方する僧侶達は一人もなかつた。こんな有様では奈良の御駐輦は覚束ないと、翌二十六日に和束(わつか)の鷲峯山へ御入りなされたが、此処は又余りに山深く、人里が遠い事とて、何の計略も出来難い所であつたから、同じ二十七日、御忍びの行幸の儀式を取られ、奈良の僧侶達を少しばかり召し具せられて、笠置の石室(いはや)へ臨幸遊ばされた。









師賢登山の事附唐崎濱合戦の事

 尹大納言師賢卿は、天皇の御召物をつけ、天皇の御輿に乗り、比叡山の西塔院へ登られ、西塔の釈迦堂を皇居と定め、天皇は比叡山を御頼みあつて臨幸遊ばされたと云ひ触れさせたから、山上、坂本は申すに及ばず、諸処の者が吾先きにと御身方に馳せ参じた。
 六波羅ではまだ此事を知らなかつたが、浄林房阿闍梨豪誉の所から、天皇が比叡山へ臨幸せられ、三千の僧侶が明日は六波羅へ攻め寄せるといふ噂である。急いで東坂本へ軍勢をお出しなされと云つて来たので、両六波羅では大いに驚き、畿内五筒国の軍勢五千余騎を大手の寄手として、赤山の麓、下松の辺までさし向け、搦手へは佐々木三郎判官時信、海東左近将監、長井丹後守宗衡、筑後前司貞知、波多野上野前司宣道、常陸前司時朝らに美濃、尾張、丹波、但馬の軍勢を添へ、七千余騎で大津、松本を経て唐崎の松の辺まで攻め寄せた。
 坂本の方でもかねがね打ち合してあつたので、大塔宮、妙法院の御二人は宵から八王子(二七)へ御上りになつて、御旗を上げ合図をされたので、此処彼処より馳せ集つた軍勢が一夜の中に六千余騎となつた。大塔宮を始め皆解脱同相の衣(二八)を脱ぎ捨てゝ甲冑に身を固め、手々に武器を執つて立つたから、垂跡和光(二九)の庭は忽ち変つて勇士守禦の場となつた。其中六波羅の軍勢が近づいたといふしらせに、勇み立つた男達は取る物も取りあヘず唐崎の浜へ押し出し、岡本房の播磨の竪者(りつしや)快実を先頭に、六波羅に討ち入つて火花を散らして切りまくつた。
 唐崎の濱は、東は琵琶湖で汀が崩れてをり、西は深田で馬の足も立たず、平つたい砂原のひろぴろとした場所で道が狭く、寄手も僧侶達も互に第一線にある者ばかりで戦ひ、後陣の軍勢はどうする事も出来ず、唯だ見物して控へてゐた。
 さて唐崎で戦が始まつたといふので、御門徒の軍勢三千余騎は白井の前を今路へ向ひ、本院の僧侶達七千余人は三宮林(さんのみやばやし)を下り、和仁(わに)、堅田の者共は小船三百余艘に乗つて、敵の背後を遮断しようと、大津をさして漕ぎ始めた。六波羅の軍勢はこれを見て、かなはぬと思つたか、志賀の閻魔堂の前を横切り、今路の方まで引返して行つた。
 










主上臨幸実事にあらざるに依つて山門変議の事

 比叡山の僧侶達は唐崎の合戦に勝つて喜び合ひ、西塔の皇居を本院へお遷し申さうと、西塔の者共は行幸を促す為め皇居に参列した。折柄の深山おろしに吹上げられた御簾の中には龍顔が拝せられず、天皇の御衣を著けた尹大納言師賢が控へてゐられたので、僧侶達はあきれ、それ以後は誰れ一人御身方となる者もなかつた。そこで尹大納言帥賢、四條中納言隆資、二條中将為明の三人は其夜半にこつそりと比叡山を逃げ出し、笠置の石室へ行かれた。僧侶達も亦六波羅へ降参する者、逃げ出す者、四分五裂して、今は三四百人しか止まつてゐる者がなくなつた。
 妙法院と大塔宮とは其夜まで八王子にゐられたが、一先づ逃げ延びて天皇の御行方を聞かうと思召され、二十九日の夜半に戸津の浜から小舟に乗られ、止まつてゐた僧達三百人程を召しつれて、先づ石山へ逃げられた。此処で御二人はお別れになり、妙法院は笠置へ行かれ、大塔宮は十津河の奥へと志し、先づ奈良の方へお逃げになられた










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