紀の国情報館およびファミリー版

テラナカ美術館所蔵 『太平記(目録・剱巻)』

後醍醐天皇御治世の事附武家繁昌の事

 神武天皇から九十五代目の帝、後醍醐天皇の御代に相模守平高時といふ武士がゐた。此人の時代から天下は乱れに乱れて、戦争の続くこと四十年にも余り、其間に一人の長生きをする者もなく、人々は皆身の置き所もない有様であつた。事の起りを原(たづ)ねると、それは元暦年間に後白河天皇が鎌倉の右大将源頼朝を、平家討滅の功によつて、六十六箇国(一)の総追捕使(二)に補任せられた事に始まつてゐる。これ以来武家が追々と勢力を得て、天下の実権を握るやうになつた。源氏は僅かに三代で滅びたが、頼朝の舅にあたる遠江守平時政の子孫が其後を引き請け、時政の子の義時の時から其勢力が愈々盛んになつて来た。そこで時の太上天皇(三)であらせられた後鳥羽院は、此義時を亡ぼさうとせられ、遂に承久の乱となつたが、不幸にも官軍は敗北し、畏れ多くも後鳥羽院は隠岐の国へ遷幸せさせ給うたので、義時は遂に天下を己が掌中に収めてしまつた。
 其後、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時と、七代の間武家政治が続いたが、其徳望はよく人民を撫し、権勢に驕らず、謙譲で、仁恩を施し、礼儀を正しくする等の善政を行つて、鎌倉幕府の基礎を固めた。承久の乱後は、皇太子或は摂政家等の中から、治世安民にすぐれてゐられる貴族を一人鎌倉に御下りを願つて征夷将軍(四)と仰ぎ、一同は礼を厚くして之に御仕へ申したり、又京都に両六波羅、鎮西に探題を置いたり、内治外防に意を用ひた為め、天下の人々は皆其権勢に服従してゐた。
 所が時政より九代目の高時に至つて、暴政を行つて人民を疲弊せしめ、権勢に驕つて遊惰の限りをつくし、見る人聞く人皆眉を顰め、悪口を云はぬ者はないといふ有様であつた。此時の帝、後醍醐天皇は御年三十一の時御位に即かせられ、御在位の間三綱五常(五)の道を正し、一切の政を忽かせになされず御精励遊ばされたので、天下の万民は皆御高徳に悦服した。凡て諸道の廃れたものは興し、一善事をも嘗めさせられた為め、神社寺院は繁昌し、仏道儒道の大学者達も其望みを達する事が出来た。誠に又となき聖主、明君であられると、御徳化を称へ奉らぬ者がない有様であつた。
起 文保2年2月〜正中2年7月








関所停止の事
 各地の関所は、元来国の禁制を知らしめ、非常の時に備へる為めであつたが、今では通行の旅人から税金を取り立てゝ通商の妨げをなし、年貢運送に煩ひがあるといふので、後醍醐天皇は大津、葛葉の二筒所以外は関所をやめられた。
 又元亨元年の夏に大旱魃があり、畿内畿外とも土地は赤焼(あかやけ)となり、田には一もとの青苗もなく、餓死する者が相尋ぐ有様であつた。天皇はこれを聞召されて、「朕が不徳ならば朕一人を罪せよ。何の咎があつて人民は斯る災ひに遭ふのか。」とおつしやられ、御自身で御朝食をやめられ、飢ゑ苦んでゐる者に施しをされたが、それでも尚万民の飢ゑは救へないと、検非違使(六)の別当に仰せて、裕福な者の蓄へてゐる米を売らせたりせられた。その為め商賈は互に利益を得て、人々は皆多くの蓄へがあるやうになつた。
 又訴訟人の出た時に、下々の有様が御自身に通じない事があつてはと、天皇み親ら記録所へ出御あらせられ、直々に訴へをお聞きになり、理非を決断されたので、国内の訴へは直ちになくなり、刑鞭(七)は朽ち、諌鼓(八)を撃つ人もなかつた。誠に治世安民の政治にたけさせられた、立派な明君と称へ申すべきである。



立石の事附三位殿御局の事

 文保二年八月三日に後の西園寺太政大臣実兼公の御娘藤原禧子が后妃の御位につかれた。此家から女御(九)を立てられた事は既に五代で、一家の繁昌は天下の人々を驚かした。
 此方は御歳十六で宮殿に上られたが、桃の花が春の陽になまめくやうな御顔、しだれ柳が風になぶられるやうな御姿、東西古今に比類のない絶世の美人であられた故、定めて天皇の御寵愛も深からうと思はれたが、其御情は木の葉よりも薄く、一生をお側近くへ参る事もなく、宮殿の奥深くに明け暮れ恨み欺いてゐられた。
 その頃安野中将公廉の娘で三位の局といふ女房(一〇)が中宮(一一)にゐた。天皇は其方を一目御覧になられてから他に比べる者もない程の御寵愛ぶりで、直ちに准后(一二)の勅をお下しになられた。




儲王の御事

 天皇には次々と宮が御誕生になり、十六人もあられた。中でも第一の宮尊良親王は、御子左大納言為世卿の娘為子の御腹であられたが、吉田内大臣定房公が御育て申したから十五の御歳から和歌の道にすぐれてゐられた。第二の宮も同じ腹からお産まれになり、幼時から妙法院といふ寺に入(はい)られて仏教を学ばれた。仏道に励まれる傍和歌の道をも修められ、風雅にも長じてゐられた。第三の宮は、民部卿三位殿の御腹で、御幼少から賢くいらせられたから、天皇は御位を此方に御譲りにならうと考へられたが、御治世の事は、後嵯峨院の御代から大覚寺殿(一三)と持明院殿(一四)とが代る代る遊ばされる事に定められた為め、今度の皇太子は持明院殿の方を御立て申した。国事は一切北條氏の計らひで定められ、天皇の御考へ通りにはならなかつたから、此宮は御元服の儀を改められ、梨本の寺に入(はい)つて承鎮親王の御弟子となられたが、一を聞いて十を知る程のすぐれた御性質であられた故、天台宗の奥義を究め、深くその教を会得遊ばされた。そこで衰へかけた天台宗を興し、絶え/゛\となつてゐる仏教の命脉をつなぐは此御門主の時だと、一山の僧徒は合掌して仰ぎ奉つた。第四の宮も同じ腹であられたが、此方は聖護院二品親王の御弟子であつたから、三井寺で仏教をお学びになられた。此外多くの皇子が皆立派な方々であり、皇室の御固めは愈々確かで、王業再興の御運の開ける時機が来たやうに見受けられた。



中宮御産御祈りの事附俊基偽つて籠居の

 元享二年の春頃から、中宮(一五)禧子の御懐妊の御祈りだと云つて、諸所の寺々から名高い僧達を呼んで秘法を行はせられたが、翌元享三年まで一向御産の御様子は拝されなかつた。これは中宮の御産にことよせて北條氏を滅す為めの呪ひのお祈りであつたといふことである。
 かほどの重大事を思ひ立たれたのであるから、臣下の意見をも一わたり聞きたく思召されたが、若し北條氏の方へ謀が漏れてはとの御心配から、有徳深慮の老臣にも側近の侍者達にもお話しにはならなかつた。唯だ日野中納言資朝、蔵人右少弁俊基、四條中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔だけに内々御相談があり、相当数の兵士をお集めになつた所、錦織の判官代足助次郎重成、奈良及び叡山の僧侶達が少しばかり詔に應じて来た。
 俊基は家代々の儒学を継ぎ、其の才智学問は人に優れてゐた為め、抜擢せられて弁官(一六)に列し、蔵人(一七)をつとめてゐた。所が御用が多くて、謀をめぐらす暇がないので、何とかして暫くの間籠居し、心ゆくばかり謀叛の計略を進めたいものだと考へてゐた所、比叡山横川の僧侶が願書を奉つて宮中へ訴へ事をした。俊基は其願書を披いて読んだが、わざと読み誤つた風を装ひ、楞厳院を慢厳院と読み上げたので、一座の公卿達は目を見合せ、手を叩いて笑つた。俊基は顔を赤くして、恥入つた様子で退出した。それ以来恥をかいたから籠居をすると言ひ触らして、半年ほど勤めに出ず、山伏の姿に身をやつして大和や河内の国に行き、城となりさうな所を見定め、又東国西国にも行き、其国々の人気、風土や武士の様子等を内々調べた。



無礼講の事附玄慧文談の事

 美濃の国の住人に土岐伯耆十郎頼員、多治見四郎次郎国長といふ者があつた。二人共清和源氏の流れを汲み、武勇の評判が高かつたから、日野資朝卿は色々の縁故をたどつて彼等に近づき、友達としての交りも深くなつてはゐたが、北條氏を滅ぼさうといふ一大密謀を容易に知らせるのは考へ物だ、猶よく其心を探つてみようと、無礼講といふものを作つた。それに入つた人々は、尹大納言師賢、四條中納言隆資、洞院左衛門督実世、蔵人右少弁俊基、伊達三位房游雅、聖護院庁の法眼玄基、足助次郎重成、多治見四郎次郎国長などである。其集會遊宴の有様は見聞きする者を驚かした。身分の上下なしに酒を酌み交はし、男は烏帽子を脱ぎ髷を切つて散髪とし、法師は法衣をつけずに白衣となり、年頃十七八の顔、姿の美くしい、特に皮膚のすべ/\した二十人余りの女に、生絹の単物だけを着せて酌をさせたから、雪のやうな白い肌が透き通つて見え、丁度大液池の水面に莟を破りたての蓮の花のやうであつた。料理は山海の珍味を尽く集め、旨い酒を泉のやうに湛へて遊び、戯れ、舞ひ、歌つた。そして其遊びの間々に、北條氏を滅ぼす計略が廻らされた。
 目的のない、理由の立たぬ、こんな集會を何時も開いてゐては人が怪み咎めるであらうと、文学談にことよせる為め其頃才智学問に於ては並ぶ者がないといふ評判の学者玄慧法印を招き、『昌黎文集』の講義を行はせた。玄慧法印は謀叛の企てとは夢にも知らず、会合の日毎に會場へ来て深淵な学を説き、道理を明して行つた。此『昌黎文集(一八)』の中に『昌黎潮州に赴く』といふ長篇があるが、此処まで来ると講義を聞いてゐた人々は「これ(一九)は縁起の悪い書物であつた。呉子、孫子、六韜三略などが、今日に必要な書物だ」と云つて、『昌黎文集』の講義を止めてしまつた。








頼員回忠の事

 これら謀叛人の仲間である土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行である齋藤太郎左衛門利行の娘を娶つて深く愛してゐたが、其妻に心をひかれて謀叛の事を打明けた。妻は驚いてそれを父の齋藤利行に知らした為め、計画は一切北條方に漏れてしまつた。六波羅では直ちに軍勢を集め、他の事に云ひふらして油断せしめ、元徳元年九月十九日の未明に、小串三郎左衛門尉範行、山本九郎時綱の二人を討手の大将として、三千余騎の軍勢を二手に分け、多治見国長、土岐頼員の宿所へ討ち寄せた。
 時綱は態と大勢の兵を三条河原に止め、召使の者二人に長刀を持たせ、己れ唯一人で土岐の宿所に忍び入り、客殿の奥の間をさつと引きあけると、土岐十郎は今起き上つた所と見え、髪を結つてゐたが、山本九郎を鋭く睨み、「心得た」と云ひさま、立てかけてあつた太刀を取り、側の唐紙を蹴破つて客殿の方へ跳り出で、天井に太刀を打ち当てないやう横払ひに切りつけた。時網はわざと敵を広庭へ誘ひ出し、隙があつたら生捕らうと、相手の太刀を打ち払つては退き、受け流しては飛びのき、人を交へず戦ひつつ、後方をふり返り見ると、後詰の軍勢二千余騎は一度にどつと鬨の声を上げ、第二の門から乱れ入つて来た。土岐十郎は長く戦つては却つて生捕られると思つたか、元の寝間へ走り帰り、腹十文字にかき切つて、頭を北に伏し倒れた。中の間に寝てゐた若武者連も思ひ思ひに討死をして逃げ出す者は一人もなかつた。山本九郎は土岐十郎の首を取り、太刀先に突き通し、六波羅をさして馳せつけた。
 多治見の宿所へは小串三郎左衛門範行を真先に三千余騎で押し寄せた。多治見は夜通し酒を飲んで酔ひつぶれ、前後も知らずに寝てゐたが、鬨の声に驚いて目を覚し、こりや何事だと騒ぎ廻つた。
 小笠原孫六は太刀だけ持つて中門まで走り出で、あたりを見廻すと、土塀の上から車の輪のついた旗が一本見えてゐた。孫六は内へ飛び込んで、
「六波羅から討手の軍勢がやつてきた。此間の御謀叛が早くも露顕いたしたと見えまする。さあ各々方、太刀の続く限り切り合つて腹を切られよ。」
と、大声に叫び立て腹巻(二〇)をとつて急いでひつかけ、二十四本差したる胡●(「たけかんむり」+「禄」)(二一)と重籐(二二)の弓を提げて、門の上の櫓にかけ上り、中差(二三)の尖矢をとつてつがへ、櫓の窓板を一ぱいに開いて、
「まあ、何たる仰山な軍勢だ。拙者の手並を見せてやらう。一体討手の大将は何奴だ。近づいて矢を一本うけてみられい。」
と云ひさま、十二束三伏(二四)の大矢をカ一ぱい引きしぼつて打ちはなし、真先に進んできた狩野下野前司の若侍、衣摺助房の兜の真正面を鉢附(二五)の板まで射通して、馬から倒(さかさま)に射落した。
 多治見を始め一族の者、若武者ら、二十余人は、甲冑にしつかりと身を堅め、大庭に跳りだして、門の閂(かんぬき)をさして待つてゐた。寄手の先陣五百余人は、皆馬から下り、徒歩となつて鬨の声を上げつつ庭へ乱れ入つてきた。庭にたてこもつてゐる兵士達はどうせ逃げられないと決死の覚悟をしてゐるから、一歩も後へは退かない。大勢の敵の中へ乱れ入つてわき目もふらず切りまくつたので、先駆けの寄手の軍勢五百余人は散々に切り立てられ、門の外へどつと逃げだした。けれども寄手は大勢故、先陣の者が退くと、二陣の者がわつとかけ込む。かけ込めば追ひ出し、追ひ出せば又新手がかけ込み、朝の八時から正午頃まで火の出るやうに烈しく戦つた。かく表門の軍勢が強くて打ち破れない為め、佐々木判官の手下千余人は後へ廻つて錦小路から近在の民家を打ち壊して乱れ入つた。多治見はこれを見て、もはや終りであると思ひ定めたのであらう、二十二人の人々と中門に並び、互にさし違へて算木を倒したやうに死に果てた。
 表門の寄手の者が門を破つてゐる間に、裏門の軍勢が乱れ入つて皆の首を取り、六波羅へと馳せ帰つて行つた。四時間ほどの合戦の間に、傷ついた者、死んだ者が、合せて二百七十三人もあつた。














資朝俊基関東下向の事附御告文の事

 土岐、多治見が討たれて後、天皇の御謀叛が段々露はれて来たので、鎌倉の使者長崎四郎左衛門泰光、南條次郎左衛門宗直の二人が上京して、五月十日に資朝、俊基の両人を召捕つた。土岐が討たれた時は、生捕りになつた者は一人もなかつたから白状する者はまさかあるまい、それにつけても自分らの謀叛の事はあらはれないだらうと、たよりない事を頼みとして油断し、一向何の用意もしてなかつたので、妻子らは東西に逃げ廻つても身を隠す処がなく、財産宝物は道に引き出され、馬の足に蹴散らされてしまつた。
 五月二十七日に鎌倉の使者両人は資朝、俊基を引連れて鎌倉へ下り着いた。これらの二人は謀叛の首魁だから、直ぐ殺されるだらうと思ひの外、二人共朝廷の重臣であり、且つ才智学問もすぐれてゐたので、北條方では世間の悪口や天皇の御怒りを心配し、拷問にもかけず、唯だ普通の罪人と同じやうに取扱つて、侍所(二六)へ預けて置いた。
 七月七日は七夕祭を行ふ夜であるが、世の中が騒がしい折なので、詩歌を唄ふ文人も、音楽をかなでる楽人もない。丁度御殿の宿直にあたつてゐた公卿達も、気味の悪い世の中の有様を見て、何時自分らの身の上に変りが起らないものでもないと、憂ひ怖れてゐた折なので、皆心配げに思ひ沈み、首垂れて侍つてゐた。ひどく夜が更けてから、天皇が、「誰れかをらぬか。」とお呼びになられたので、「吉田中納言冬房が居ります。」と御前に参ると、天皇は冬房をお側近く召されて「資朝、俊基が捕へられた後も、鎌倉は尚静まらず、都は常に危険にさらされてゐる。この上又どんな事をされるかわからないと思ふと心配でならぬ。何とかして第一に鎌倉方をおだやかにさす工夫はあるまいか。」
と、お問ひになられたので、冬房は畏まつて、
「資朝、俊基の二人共、白状したといふ事を聞きませんから、武臣達もこれ以上は何もすまいと存じますが、近頃の鎌倉方は、軽はずみな行ひが多うござります故、決して御油断はなりません。何よりも告文(二七)を一枚鎌倉へお下しになつて、高時の怒りを静めさせられては如何でございませう。」
と申し上げた所、天皇ももつともな事だと思召されたのか、「では冬房、お前すぐ書け。」と仰せられた。そこで冬房は御前で下書きをして、それを御覧に入れた。天皇は暫く御覧になつてゐられたが、御涙がはら/\と其告文の上にこぼれたので、御袖でそれをお拭ひになられた。御前に侍つてゐた老臣達も、皆悲嘆の涙にくれた。
 やがて万里小路大納言宣房卿を勅使として、此告文を鎌倉へお下しになられた。北條高時は秋田城介に云ひつけて告文を受け取り、披いて見ようとしたのを二階堂出羽入道道蘊が強く諫めて申すには、
「天皇が武臣に向つて直接に告文をお下しになられた事は、外国にも我国にもまだ其例がございません。若し不用意に御覧になられたならば、必ず神仏のたたりがございませう。文箱を開かないで、そのまま勅使にお返しなさるがよい。」
と再三申したのを、高時は、「何のかまふことがあるものか。」と云つて、斎藤太郎左衛門利行に読ませた。所が「わが心に偽りのない事は天つ神が御存知だ。」と記(しる)された所まで読み進むと、利行は急に目まひを起し、鼻血が出た為め、読み終らないで引き退つた。其日から利行は喉の下に悪性の腫物が出て、七日の後には血を吐いて死んでしまつた。軽薄な末世とはいへ、人道は地に堕ちたとはいへ、君臣上下の礼にそむく時は、立所に神仏の罰が当ると、此事を聞き伝へた人々で、おぢ恐れない者は一人もなかつた。
 高時もさすがに天つ神の御心を恐れたのか、「御治世の事は朝廷の御相談に御任せ申してある以上、武家で何かと御干渉申し上ぐべきではございません。」とお答へして、告文をお返し申した。宣房公は直ぐ都に帰り、此事を申し上げた所、天皇は始めて御顔色をやはらげられ、多くの臣下達も亦安堵の色をあらはした。
 やがて俊基は微罪として放免され、資朝は死罪のところ一等を減じて、佐渡の国へ流される事になつた。








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